領域について

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本領域のホームページにようこそ。
 従来の認知科学は人間の認知行動と脳基盤について、社会を所与の定数として分析してきました。しかし予測困難で一回性の現実世界と切実に向き合う人間の当事者性を扱うには、個体脳―世界相互作用を組み込んだ学術変革が必要と私たちは考えます。身体や認知特性の多数派にとって予測しやすいよう作られた世界にマッチしない少数派特性に苦悩する人々は、当事者研究により自らの持つ法則性/物語性と世界のそれらとの不一致に気づくことが回復への緒であるという知を生み出しました。
 これに学び本提案は、学術者自身の当事者化と少数派特性を持つユーザー研究者との共同創造、および大集団科学と脳行動科学を融合する学術変革により、相互作用する個体脳と世界の法則性と物語性の理解に基づき人間の当事者化の思春期発達過程と機構の解明を目指します。
 このように本領域は、当事者研究の知から出発し、人間の当事者化について統合的に解明するという、学術目的の根本的変革を目指し、そのために、学術者の当事者化や研究の共同創造、および、世界の変数化、大集団科学の適用という、学術主体と方法を変革します。これらにより、ポストコロナ時代を生きる若者の教育やヤングケアラー支援策等を具体的に提案するとともに、理念としては叫ばれているものの具体的な道筋が見えないダイバーシティ・インクルーシブ社会の形成に向けて科学的指針を示します。
 これからの5年間、どうぞよろしくお願い申し上げます。

笠井清登
東京大学大学院医学系研究科

 
 

人間は、予測困難な現実世界と切実に向き合う存在です。人の集合や、人と人との関係によって成り立つ社会と、自然・人工を含めた環境を総合したものを、本領域では世界と呼びますが、それは、各個体が物理的に直接作用をもたらす周辺環境である私的世界のみならず、より広く抽象的な社会構造や文化を含む、公共世界にまで及びます。

 
 

人間存在が現実世界と向き合うときに駆動する脳は、個体から環境に働きかける、つまり作用することで、得られた環境側の法則性を個体に内在化することを可能にする器官です。すなわち、個体の脳と世界は、相互作用、相互形成ループを生じることが重要な特徴です。人類史においては、この相互に作用するループを繰り返して、より予測が成立しやすいように世界を変化させる文化要因が、生物要因以上に加速的に変化してきました。しかし、このループが、富や知識をめぐる無限の競争として一面的に機能してしまった結果、社会格差の拡大や、自然災害による社会影響の増大化をもたらしました。このような世界と向き合う人の困難状況の解消に向けて学術として貢献するには、相互作用ループをモデルに組み込むことが必要で、世界を所与の定数として扱って近年急速に進展している認知・脳科学を大胆に変革すべきです。

 
 

 誰にとっても個体と世界のアンマッチが生じうる状況をどのように乗り越えるのか、その知と方法は絶対的に不足しています。しかし日本では、少数派の立場からの実践知として当事者研究が独自に生まれました。身体、脳機能など個体特性の多数派は、自分たちにとって予測誤差の減るように世界をデザイン、法則化するため、少数派は世界とのアンマッチを経験しやすくなります。
 計画研究者の熊谷と綾屋は、自らが身体および発達障害として経験する予測誤差を手がかりに、世界と個体特性のアンマッチプロセスと回復への道筋の解明に先駆的に取り組んできました。その結果、仲間との対話にもとづく実践知の発見という当事者研究を通じて、人が回復する過程においても、法則性の認識、すなわち自己の身体や脳の法則性と、多数派向けの世界の法則性とのアンマッチへの気付きと、引き続いて生じる、物語性の形成、すなわち自己の体験を自伝的記憶や経験として再編し、世界や歴史の中に主体としての物語を定位する、という二つのプロセスの存在を発見しました。

 
 

このような当事者知から私たちは、人間が、多数派向けに法則化され、予測誤差の少ない世界に安住しようとするのではなく、日々困難状況を解決する知を探求し、世界に切実にコミットする主体となることを当事者化と呼び、この過程と機構の解明に認知科学として取り組むため、個体の脳と世界が、法則性と物語性という二次元の様式で相互作用するとの仮説を導きました。世界の法則性を内在化し、次の状況予測に生かすのが脳機能の法則性です。集団としては人工物や規範を生み出し世界を法則化する特徴があります。一方、世界に対する作用を、時空間的に始点と終点をもつエピソードおよび位置と、その推移として内在化するのが、脳機能の物語性です。これにより、個体の行動履歴が更新され、集団としては物語の集合としての歴史が作られ、個体は歴史の中に自己を定位します。

 
 

当事者化を考えるうえでは、そうではない状態、つまり非当事者状態を定義する必要があります。多数派の多くは、少数派との分断が現実に存在する世界から目を背け、予測誤差が少なく、自己の物語や、その集合としての共同体の神話を構築しやすい、仮想的な世界を作り安住しようとします。これを人間の非当事者状態と呼びます。人間はここからどのように当事者化しうるのでしょうか。多数派もまた、困難状況を解決する知を持たず日々苦悩しつつ生きる存在であるという事実に立ち返り、少数派の知と方法に学び、共同で個体の脳と世界の法則性、物語性を統合しようと、主体的に世界にコミットしていく必要があります。このことを共同創造と呼びます。

 
 

私たちはこれまで2期にわたる新学術領域で、ヒト独自の精神機能としての自己制御性とそれがはぐくまれるライフステージとしての思春期を解明、そしてそれを発展させ、思春期を、親子関係による価値の継承から社会関係による価値の主体化の時期ととらえ、それにより長期的な人生行動を突き動かすという人生行動科学を創出してきました。人はどう生きるか、という命題に対して、ヒトが人になる過程、人が人間になる過程を明らかにしてきたと言えます。そして本提案では、市民や学術者が非当事者化してきた歴史に加えて、新たな分断が生じている現代社会の困難を自覚し、それを解決するために、学術として、「人間が当事者になる」過程の解明に取り組み、そのためには学術や学術者自身の変革を行うという、きわめて挑戦的な提案をいたします。

 

A01チームは、大集団脳科学による相互作用ループ分析にもとづく人間の当事者化の脳モデルを導出し、他チームに提供します。田中は、強化学習理論による相互作用ループの計算脳科学的仮説を導出し、経済学者の松井は、ゲーム理論により相互作用ループのモデル化を行い、中村は、これらのモデルにもとづき、個人の摂食行動に着目した相互作用ループの思春期発達について、東京ティーンコホートを用いた大集団脳科学でモデルの妥当性を検討します。

A02チームは、A01から導出された計算脳科学モデルを、東京ティーンコホートで実証していきます。思春期は、ライフステージ上、脳が世界と本格的に出会い相互作用しながら成熟してくる時期ですが、都市化や情報化などの文化変化サイクルが加速化したうえ、COVID-19で新たな分断が生まれた現代の東京という大都市において、若者が、親世代の成功モデルを受動的に継承して多数派にとどまろうとするのではなく、どのように当事者化、すなわち、世界に主体的にコミットしていけるのか、その認知発達機構を明らかにしていきます。

A03チームは、個体の脳と世界の相互作用ループに対する、時代、世代、ジェンダー、地理的環境の影響を解明し、時空間大集団脳行動科学という全く独創的な科学を創出します。笠井は、6000名の人生行動の電子記録と、うち1200名の脳画像データの解析により、世代間トラウマと同世代トラウマの時代による変遷とそのジェンダー差、これらの脳機能への影響、さらには、思春期までの地理的居住環境や大都市への移住が与える影響を検討します。北中、澁谷は、医療人類学、社会学の立場から、精神障害、ヤングケアラーなどの個人がおかれた状況をことばとして定義することが、個人の認識と社会をどのように変え、またそれが時代によってどう変わっていくのかの相互作用ループを検討します。

B01チームでは、ユーザー研究者の立場から熊谷と綾屋が、当事者研究の過程における法則性/物語性の基盤の解明とともに、世界の多数派ー少数派分断が、どのように当事者研究・共同創造を経て解消されうるのか、その過程を個体レベルと集団レベルから、行動科学的に分析します。外谷は、同テーマについて、複雑系科学の立場からシミュレーション分析やバーチャルリアリティ・ロールプレイ実験を組み合わせて明らかにします。

 

B02チームは、B01でモデル化された人間の当事者化プロセスについて、その脳基盤を、実験動物とヒトを対象とした研究で明らかにします。柳下は、ドーパミンが個体脳と環境の相互作用ループの鍵分子であることを明らかにしてきた実績から、一回性の事象の物語性情報の内在化を海馬が担う一方、繰り返される事象の法則性による内在化を線条体ドーパミン系が担い、その切り替えに前頭葉が関与するという独創的な仮説を証明していきます。植松は、これを発達過程におけるトラウマ事象に伴う脳機能の変調や回復の観点から明らかにします。多田は、ヒトと非ヒト霊長類の皮質脳波比較を用いて、脳機能の法則性/物語性の基盤を解明します。